2012/01/29

東京急行電鉄5050系4000番代(4102F)

このところ東急東横線を撮影していると、やってくるのは同じような電車ばかりということになります。東急5050系・5000系、横浜高速Y500系と同じデザインなのですから当然のことです。その中に大井町線への転属が進む9000系や日比谷線に入る1000系・東京メトロ02系が加わるような感じです。
湘南新宿ラインに対抗して特急が設定されたり、みなとみらい線が開業して横浜ー桜木町間が廃止になってからも、オリジナル・歌舞伎顔の8000系、8590系が走っていたのですが、これらは既に東横線を去って行きました。
ところが副都心線のとの直通が始まると、東京メトロ車・東武車・西武車が入ってきますから一挙に車両のバリエーションが増します。そしてまたいまのところ空いている副都心線もぐっと利用客が伸びるかもしれませんね。
写真の4102Fは2011年6月に東急車輌で完成したものです。2011年11月から暫定的に8両編成で営業運転を開始しました。

東京急行電鉄1000系(1019F)

東急池上線・多摩川線では、1000系27両(3両編成)が活躍しています。ベテラン7600系・7700系と新鋭7000系に挟まれた中堅どころといった位置づけになるのでしょうか?
1000系の車体は、東横線用の9000形を一回り小さくしたようなデザインとなっています。その中でも窓配置や行先表示回りなどが1000系独自のデザインとなっています。
最初は先代7000系に代わる東横線から日比谷線直通運転用に8連が投入されましたが、目蒲線・池上線に残っていた緑色の旧形電車を置き換えるために4連と3連も登場しました。
写真の1019Fは1993年3月に両端の先頭車が製造され、1991年9月に製造された中間車を組み込んで3両編成としたものです。池上線用でしたが、現在では多摩川線でも使用されています。

東京急行電鉄7700系(7905F)

東急池上線・多摩川線には、新形7000系電車が少しずつ投入されていますが、先代7000系のスタイルを維持している7700系も30両(3両編成10本)が活躍しています。
7700系への改造に際して、冷房化と車内更新を行っていますが、オリジナルのスタイルをよく残しています。50年近く使用している車体とは思えないほど、いい状態を維持しています。
足回りはほぼ新品となって、VVVFインバータ制御となりました。7000系の時代は全電動車でしたが、7700系ではモーターなし車を取り入れていますね。
写真の7905Fは、1987年12月に東急車輌で改造されたものです。目蒲線では4連で使用されましたが、現在では3連となり、ワンマン運転対応に改造されております。

2012/01/28

東京急行電鉄 1992年

1992年当時池上線には、7200系が走っておりました。7200系は先代7000系の改良形ともいえる存在でしたが、傾斜した前面や数が少ないこともあってなんとなく東急の中でも特別な電車だという印象がありましたね。現在も2編成が活躍している7600系を含めて、42両が池上線で使用されていました。東急からは既に引退した7200系ですが、上田電鉄や豊橋鉄道では現役として活躍していますね。同じく7200系が移籍した十和田観光電鉄の廃止は残念ですね。
現在では多摩川ー蒲田間で多摩川線となっていますが、1992年では目黒ー蒲田間の目蒲線でした。また現在では3両編成ですが、目蒲線当時は4両編成での運転でした。
下丸子の駅も現在では改装されて、屋根が設けられている他、ホームは3両編成用となり、ワンマン運転用の柵がついていますね。また背景の立体駐車場も現存しません。
当時の目蒲線の主力は4両編成の1000系と7700系でした。現在多摩川線の車両は、池上線と共通運用で車両基地も雪ケ谷検車区に統合されていますが、目蒲線の頃は奥沢に車庫がありました。
現在では目黒線用の3000系や5080系が留置されていますね。こじんまりとした車庫でしたが、現在でも6両編成がきれいに収まっております。
東横線に目を転じると、当時は8590系が急行専用、8000系と9000形が急行・各停兼用というイメージがありました。正確なところはわからないのですが、現在では特急・急行・各停で車両の区別がない東横線ですが、8090系とみなとみらい線直通をにらんで編成を組み替えた8590系には急行用というイメージがありました。
当時東横線での最新型車両が、1986年から投入された9000系でした。外観は角ばった車両ですが、車内の腰掛は奥行きが深く乗り心地のよい車両です。車端部の向い合わせの座席は、なかなかいいものだと私は思います。
当時は先頭車のスカートも装備されていませんね。9000系も次々と東横線を去り、大井町線への転属が進んでいます。
 地下鉄日比谷線からの直通電車も、当時は1時間に4本の運転が基本でした。日吉までの運転でしたね。初代の3000系に代わって、冷房付きの03系が増備されていました。
当分は日比谷線の主力として走り続けるであろう03系ですが、当時は営団地下鉄のシンボルマークを付けていますね。正式には帝都高速度交通営団といったと記憶しています。そういえば京王電鉄も、旧社名を京王帝都電鉄というのですよね。
現在は東急東横線と目黒線がきれいな方向別複々線を形成している田園調布ー多摩川間も、当時は工事のまっさい中です。
高頻度の電車運転を継続しながら、ルートを作りかえるのは凄いことだと思います。東急グループの総合力は現在、渋谷を結節点とした副都心線と東横線の相互乗入れに注がれていますね。
【撮影:佐野次郎 1992.2.9 ①蒲田ー蓮沼間、②下丸子駅、③奥沢(敷地外から撮影)
④⑤⑥自由が丘ー田園調布間、⑦自由が丘ー田園調布・奥沢間】

2012/01/22

上野駅の20系客車

次回のダイヤ改正で「日本海」が定期列車としては廃止になるように、21世紀になってから次々と姿を消していき、一般的な移動手段としては使命を終えつつある感の強いブルートレインですが、元祖は1958年に東京ー博多間の「あさかぜ」に投入された20系客車です。
何でも当時は現在の大衆化の進んだ特急とは異なり、文字通り「特別な急行」だったそうです。全車空調完備で、個室寝台から座席車まで多様なニーズに対応できる設備を備え、食堂車も備えた20系は「走るホテル」と呼ばれました。
私が鉄道写真を撮るようになった1980年代には、既に寝台特急はB寝台が2段式になった24系25形がブルートレインの主力となり、14系14形や24系24形のB寝台を3段式から2段式に改造していました。20系は「あけぼの」を最後に特急から退き、急行用に転用されておりました。
20系の急行転用としては、東京ー大阪間の「銀河」での運用が有名ですが、その他上野口では「津軽」「十和田」や、12系座席車との混結で「おが」に使用されていたかと思います。陳腐化してはおりましたが、丸みを帯びた優美なスタイルが魅力的でした。
【撮影:佐野次郎 1984年頃 上野駅】

東海道線の荷物電車

国鉄の分割・民営化に前後して投入された211系電車のE233系電車への置換えが、急ピッチで進んでいる現在の東海道本線東京口からは想像できませんが、80年代までは写真のような「荷物電車」が走っていました。
荷物輸送というのは、「国鉄がやっていた鉄道を使う宅配便」のようなもので、明治時代に始まり、国鉄の分割・民営化直前の1986年11月のダイヤ改正で全廃となりました。かつては駅に、乗車券売り場のほかに、荷物窓口というカウンターがあって荷物を受け付けていたのです。
東海道線の荷物電車は写真のように単独で走ることもあれば、旅客用の15両編成の電車に連結されて16両編成で走ることもありました。現在でも大船駅の東海道線上りホームの後方に一段低くなっている部分があるのはその名残です。また川崎駅にも痕跡が認められます。
写真の電車はクモユニ74形というもので、1962年に111・113系電車との併結用に導入されました。旧形電車の走行機器に、新製車体を組み合わせたものです。かつて新幹線の「ひかり」「こだま」で東京駅を発車すると、駅に止まっているのを見た方もおられると思います。
【撮影:佐野次郎 1985年頃 横浜ー川崎間】

2012/01/18

小田急1000形(1093F)

小田急電鉄で、地上用8000形・千代田線乗り入れ用9000形2形式を1形式で継承したような格好の1000形電車ですが、1991年に千代田線乗り入れ用の10両固定編成が登場しました。
千代田線内は10両編成での運転ですから、6両+4両での10両編成ですと中間の運転台が客室として利用できない空間になってしまいます。日中はともかく、朝のピーク時の混雑を考えると、やはり10両固定編成が理想的です。
機器の構成は6両+4両の10両編成の中間運転台を客室化した構成となっています。また他形式と連結することはありませんので、先頭車の電気連結器を省略しています。
写真の1092Fは1992年11月に川崎重工で完成したもので、10連の2次車に相当します。小田急としては3代目の千代田線直通車両である4000形の増勢に伴い、多摩急行の運用からは退いております。
【撮影:佐野次郎 2011.9.4 生田ー読売ランド前間】

過去の記事から
多摩線を走る多摩急行1000形(1094F)

2012/01/14

鶴見川を渡る東横線Ⅲ

今となっては、JR東日本をはじめとして首都圏の通勤電車は、ステンレス製の銀色の電車がほとんどになりましたが、昭和50年代頃には普通鋼製の電車が一般的で、ステンレスカーといえば東急というイメージがありました。
東急では、1962年にデビューした先代7000系から、アメリカのバット社から技術を導入したステンレスカーを傘下の東急車輌で製造していました。その後7200系や東横線の主力だった8000系、今でも田園都市線の主力となっている8500系と発展していきました。
国鉄が1985年に山手線に205系を投入する際に、東急車輛は他メーカーにステンレス車体の製造技術を公開したそうですね。その後次々とステンレス車体の電車が製造され、JR東日本では新津車両製作所という自前の工場を持つに至りました。
先日JR東日本が東急車輌の経営権を取得するという報道がありました。時代は流れますね。ちなみに写真の東急9000系は1986年にデビューしたもので、205系とは同世代ですが、制御方式はVVVFインバータ制御と一歩進んでいましたね。
【撮影:佐野次郎 2012.1.9 大倉山ー綱島間】

鶴見川を渡る東横線Ⅱ

2012年になってから、ほとんどの日が晴れですね。編成写真や形式写真を撮影するのに適した曇りの日はほとんどありません。
とはいうものの、曇りにこだわらず、体調や時間の許す限り、自然体で写真を撮ってみたいと思っています。
晴れの日には、広角寄りのレンズを持って、風景の中を走る鉄道を撮ってみては、いかがでしょうか?先日鶴見川を渡る東急東横線を撮影してきましたが、ちょっと流し撮りもしてみました。
写真の5000系5122Fは2009年4月に東急車輛で完成したものです。本来は田園都市線用の5000系ですが、5122Fは10連で試運転を行ったにも関わらず、8連で東横線に投入されたいわくつきの編成であります。
【撮影:佐野次郎 2012.1.9 大倉山ー綱島間】

2012/01/09

鶴見川を渡る東横線

私のようなオジサンにとっては、東急東横線といえば桜木町と渋谷を結ぶ路線だという印象があります。急行といいながら停車駅が多く、時間のかかる路線だというイメージもありました。
しかし現在では、JR東日本の「湘南新宿ライン」設定により、泰平の眠りから覚めたかのような、停車駅を絞った「東横特急」の運転開始、そして横浜の中心部を通る「みなとみらい線」の開通と、飛躍的に利便性が改善されています。
1時間の間に、特急・急行が4本ずつ、各停が8本、日比谷線直通の各停が2本、すばらしい高頻度運転です。さらに今後は渋谷から東京メトロ副都心線に相互直通し、東武東上線・西武池袋線につながるということでより重要性を増すでしょう。
今日はいつも撮っている編成写真ではなく、鶴見川を渡る東横線を撮影してみました。写真の電車は5050系の4101Fです。
【撮影:佐野次郎 2012.1.9 大倉山ー綱島間】

東京地下鉄6000系(6108F)

東京メトロ千代田線では、新形16000系電車の投入が進んでいますが、計画は2012年度までに16編成となっていて、すぐに6000系を全面的に置き換えるというわけではありません。
1971年に量産車が登場した6000系は、50年陳腐化しない車両をめざして設計された車両であります。高い志を持って設計された電車なのです。ちなみに6000系も1972年のローレル賞を受賞しております。
当面残る編成は、制御装置をVVVFインバータに更新した編成となります。走行機器に関しては、最新型電車に近い内容に作りかえられているともいえます。車体のデザインについては、最新型なみとはいきませんが、国電103系などと同時代の電車とは思えない斬新さを感じます。
写真の6108Fは1971年3月に東急車輌で完成したもので、6000系の1次車に相当します。冷房改造とVVVFインバータ化工事を受けていますが、側窓はオリジナルの田窓を維持していますね。

東京地下鉄16000系(16109F)

ロマンスカーをはじめ、多彩な電車の走る小田急線の中でわりあいに目立つのが、東京メトロ千代田線から乗り入れてくる16000系電車です。
見るからに新しく、また小田急車のブルーとは異なり、帯がグリーン基調なので新形の電車だということがよくわかりますね。
16000系はベテラン6000系の代替として製造されている車両で、環境配慮型の電車であることをうたっています。現在主流の誘導電動機よりもさらに効率の良い永久磁石同期電動機など、最先端の技術を取り入れています。
写真の16109Fは、2011年10月に川崎重工で完成したものです。鉄道友の会による「ローレル賞」受賞を記念するマークを掲示しております。16106F以降から、運転時の視界改善を目的として、前面の貫通扉がそれまでの中央から左寄りに変更されています。

2012/01/08

横浜市電 麦田車庫跡地

JR根岸線石川町駅で降りて、元町商店街に向って歩くと数分で「本牧通り」と呼ばれるバス通りにぶつかります。根岸方面に向かってしばらく歩くと山手隧道というトンネルがあります。
「本牧通り」には、1970年まで横浜市電本牧線が走っており、トンネルを抜けた麦田町には市電の車庫が置かれておりました。本牧通りとJR根岸線の高架の間が市電の車庫だったというわけです。
現在この場所は清風荘と呼ばれるコミュニティセンターになっており、シニアの社交場として活用されています。本牧通りに面した場所に、市電車庫があったことを示す記念碑が置かれています。記念碑の下には軌道の敷石も置かれていますね。
私は1969年生まれなので、残念ながら横浜市電をリアルタイムで見た記憶はありません。しかし現在の第二山手隧道はもともと市電専用のトンネルで、一般道に改造する工事をしていたことを覚えています。第二山手隧道ができるまで、古くからある山手隧道が両通行でしたのも覚えていますね。
近所の銭湯の駐車場には、なぜか市電の古レールが1本無造作に置かれております。市電の廃止からはや40年を過ぎましたが、本牧には地下鉄は出来ていません。現在ブルーラインと呼ばれている横浜市営地下鉄には、関内から分岐して本牧に至る路線の計画もあったのですがね。ご存じの方も多いと思いますが、地下鉄関内駅のホームの上下で2段になっているのは計画の名残です。本牧方面と上永谷・戸塚方面を同一ホーム上で乗り換えできる構想だったというわけです。
【撮影:佐野次郎 上2009.811 下2004年頃】

2012/01/04

京浜急行の珍客

昨日は箱根駅伝の開催にともない、京急蒲田駅付近の第1京浜をまたぐ踏切を使用しないために、羽田空港行きの電車を京急蒲田で一部運転打ち切りとするなどの対応策がとられました。
京急蒲田には、折り返し設備はありませんので、京急蒲田どまりとされた電車が、神奈川新町で折り返していました。
そこで普段は京急蒲田から先には入線しない、京成3050形を神奈川新町駅でたまたま目撃しました。
京成押上線から、京浜急行の三崎口まで直通する快特や特急はほとんどすべて京急新1000形と600形で賄われていて、夜遅くの特急に1本だけ都営5300形が入るのが現状ですから、白昼堂々の京成車の出現は注目を集めていました。
【撮影:佐野次郎 2012.1.3 神奈川新町】

逗子第一運動公園デハ601

京浜急行逗子線の神武寺駅から歩いて15分くらいのところにある逗子第一運動公園には、京浜急行600形のデハ601号が保存されています。
前面2枚窓・非貫通、そして前面がやや傾斜した「湘南スタイル」と呼ばれる電車ですね。現在走っている2代目600形とは、ずいぶんと印象が異なります。
 600形は1956年に登場した京浜急行としては、はじめての高性能車(走行音が従来の旧形電車に比べて静かなカルダン駆動の電車)です。当初は700形と称していました。
また40両(2両編成20本)が製造されましたが、一部が中間車改造され6連が組成されたのち、最終的に4両編成10本となりました。
2扉・クロスシートの600形は快速特急を中心に使用され、1986年まで活躍しました。私も通学に京浜急行を利用していましたので、通過していく600形を見かけた記憶があります。
600形の後任が、現在「エアポート急行」に活躍している2000形ですね。ご存じの通り、1998年にはさらに2000形の後釜となる2100形が登場しております。
【撮影:佐野次郎 2012.1.3】